そこでは住人でもある仲良し3人組が楽しげに明日からの沖縄行きの計画についてリビングで話し合っていた。
どうやらその日は昼からの営業のつもりはないらしく、入り口にはOPENの看板すらも出ていなかった。
わたしが初めてユナの本当の素性を知ったのは、その席でのナカバヤシの話の内容からであった。
わたしも顔見知りのサクヤマと言うプロダクション社長からのエピソードと言うのを彼より聞かされその場で完全にフリーズしたのだったが、一方でその事実とそれまでのユナの言動の辻褄が合うのをわたしは感じていた。
これじゃあまるで現代版ローマの休日」だな???、などとわたしは一瞬その主人公の相手役にでもなったような気分に浸っていたのだが、考えてみればこの物語もまあ(あのローマの休日同様)、所詮そのオンナ主人公の成長過程における青春のひとコマ。
わたしの存在なんてのはその彼女、ユナのこれからの長い人生ステップにおける踏み台?と言ってはなんなんだが、まあそんな単なるワンエピソードにおける特別ゲスト?程度の存在なのだろう。
なんてまた必要以上に悲観してはみたものの、それでもまあ、50を目前にした先行きも定まらぬこんなわたしにとって、まさに夢(その半分は本当に夢だったような気もするが)のような出来事と言うか?ぶっちゃけ写真週刊誌ネタとしても十分に商品価値のある出来事でもあったわけで???、と言ってもこのわたしとしてももちろんローマの休日」のグレゴリー?ペックのごとくすべて穏便にこの記事ネタは握りつぶし、それはそっと自分だけの大切な思い出の中にしまい込んでおくことにしたのだった
樓宇二按。
そう、わたしはユナの一件について、結局この店の3人にすら敢えて話そうとは思わなかった。
ユナからはその後、2、3通の味気ないメールが届いた。
最後にもらったメールの直後には、初の日本全国ツアーが決まったとかで、さいたまアリーナでのライブのアリーナチケットが2枚ほど速達で送られて来たのだが、自分としてはライブになど行く気にもなれず、少女倶楽部のファンだと言っていたトオルにそのままあげてしまった。
まあ、ユナとは結局そんな感じである。
そう、あれからもうあっと言う間に5ヶ月近くが過ぎようとしている。
思えば3.11を境にこの日本のすべてが変わってしまったように思う。
当初の予想通り原発の処理のめどはいっこうに立っておらず、巷では10年単位の放射能垂れ流しの危険性がささやかれ続けている。
それをきっかけとした反原発ムードは世界中のムーブメントへと拡大し、ドイツ他エネルギー先進国の間では一気に再生可能エネルギーへの転換へとエネルギー政策の舵が取られ始めた。
日本中でも原発の多くはストップ状態となり、新たなる安全基準が確定されるまでは全国民を挙げての節電状態へと時代の流れはシフトした。
東電株は崩壊し、もはや国の援助なしに会社の再生は不可能と言った状況となっており、風評被害をも含めたその賠償金額については、恐ろしくて誰も正確には把握すらしていない(米国の某証券会社の試算によれば50兆円近いとのこと)。
大打撃を受けた自動車、その他の輸出関連企業については、この数ヶ月でかなり復興の兆しが見え始めて来たとの報道がされていたが、ここにきてアメリカの米債務上限引き上げ問題などによりドルの信頼が崩壊し、ついに円が76円台突入へ?と全くもって予断を許さない(2011年の8月当時)
側睡枕頭 。
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